青花草堂- 中国磁器の基礎知識 -
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歴史
用語解説

●磁器と陶器

合わせて陶磁器と呼称されているが、磁器は材料がガラス質であり、陶器は土が材料である。見た目には磁器は光沢があり、硬さ、薄さが印象的である。
陶器は暖かみがあり、柔らか、吸水性があり、厚みを感じる。中国のアンティーク市場で陶器が登場するのは、ごく少量で、磁州窑と唐三彩ぐらいであり主役ではありえない。
磁器が市場に登場して以来、中国市場では磁器が高級食器であり、陶器は一般食器であったと思われる。材料のコスト及び制作過程から言っても必然であったのだろう。食器であるからには、水をはじき、洗いが簡単で、食べ物がおいしく見える色彩やデザインであることが求められる。 磁州窑は陶器であり、市場に出てくる用途の多くは枕や花瓶である。枕の場合、柔らかな素材でよかったはず。寝ているときの寝汗を吸い込むことも機能としてあったかもしれない。

●白磁

邢窯から定窯へ
唐の時代から白磁が世に出始めたようであるが、唐の時代の白磁窯遺跡が、近年まで発見されてこないかったことから唐の白磁磁器そのものがあまり注目されてこなかったが、1980年代に河北省邢台市の邢窯の発見によりその存在と現物の市場への登場で宋の時代へつながりが見えるようになってきた。

●青磁

還元焔焼成の青磁、
耀州窯,越州窯を経て龍泉窯へ

●宋代5大窯

宋の時代になって、官僚政治が安定したことで、人々の価値観がより文化面に傾く中、磁器市場も,皇帝を筆頭に究極の美を追求したことで絶品が多く登場した。
蝉の羽のように薄く、玉のように白く、鏡のように明るく、はじけばケイのように鳴る。
これが中国で磁器を表象する詩であった。
当時、人気を博した主な「窯」は以下通り・

  • 1.白磁を極めた定窯。
  • 2.雨过青天の青磁を極めた汝窯。
  • 3、4.貫入を極めた官窯,哥窯。
    貫入は、中国磁器には珍しく計算された工程ではなく、日本人の好みである自然偶然の産物である。青磁が窯から出されたあと、釉薬と地の部分で、冷却される際の収縮率の違いのためお互いに引っ張り合うことで発生するひび割れである。
  • 5.青系曜变を極めた钧窯。
    青磁系の釉薬であるが千変万化と言われる釉薬を駆使していろいろな色の変化を表現した窯である。

これら官製窯が皇帝やその王族のためだけに焼き、その技術を磨いてきたなか、マイナーリーグであった龍泉窯,建窯,吉州窯,德化窯,景徳鎮湖田窯が、メジャーリーグを狙って新しい意匠の磁器を切磋琢磨した結果、それぞれ一斉を風靡する作品を世に出した。
その後、元のフビライの時代、その部下であったヴェネチア人が、景徳鎮の湖田窯の影青の磁器を見て感動し、PORCELAINと名付けたという言い伝えがあるようである。
宋代からへ元にかけて、官製による磁器に加え各地の窯で独自の釉薬を開発し作品の差別化を目指し変革を成し遂げていったのである。

■各地の磁器の特徴

  • 龍泉窯➡青磁       緑が特徴
  • 建窑,吉州窑➡天目茶碗  黒の釉薬
  • 德化窑➡仏像系白磁➡マイセンへ  白の釉薬
  • 景徳鎮湖田窑➡青白磁   そして青花の前哨戦である青白(影青)の釉薬

さて、北白南青と俗に言われ、景徳鎮の青白も当時は当代一の磁器でなく、元の青花の登場が待たれる。景徳鎮は、前述の通り白磁、青磁では遅れを取っており、ようやく青白磁の開発で一線に出てきたわけであるが、磁器に絵を描くことをいち早く成し遂げ青花を世に出し、千年瓷都が今でも存在する由縁となった。この役割を担ったのは、前述の北の磁州窯の職人が、元との戦役の影響を受け南の景徳鎮に流れたこと。その職人が青に発色するコバルト顔料を見出したこと。青の主役であるペルシャ産コバルト顔料が、元のシルクロード交易確立で安定供給を受けることが出来たこと。そして当時の世界のお金持ちのひとつであるペルシャの市場がその青い花に魅了され、大量の景徳鎮の青花が、海のシルクロードで運ばれ、そのあとヨーロッパ市場をも魅了してゆくことになったのである。このことで元では青花磁器が戦略的輸出商品となり、景徳鎮では青花生産に特化してゆくようになります。ただし一方、輸入顔料コバルトは、コストが高く、その代替品として国産の青の顔料も開発されるようになります。このことで輸出向け、国内向けの顔料の使い分けが出てくるのでありますが、輸入ものと国産もののブレンド使用も生じることになり、その結果青の焼きムラが散見されることになります。この青の焼きムラこそが元の青花の青の特徴のひとつとなってくるわけであります。

●明の斗彩は、染付と上絵付の競演である。

究極の3原色の染付は殆どない。青と赤の染付は完成したが、黄、緑は困難。
赤もたぶん安定せず鮮明に色が出ないので、青の染付の縁取り、そのあと上絵付で色を付け再度焼成。非常に工程が面倒。コストと時間がかかるはず。

●現在の景徳鎮の変貌

千年瓷都(磁器の都)として、売り出し中の観光地であり、骨董磁器の産地NO.1の供給地であり、現代磁器の作家もの、窯元、博物館、磁器制作、生産をバックアップする、設備、磁土、磁石、器具、道具、釉薬、箱など関連書品の卸し、小売り、製品、作品のショップ、モール、景徳鎮磁器大学の学生、職人、鑑定家、そして世界中のバイヤーが集結する1000年の歴史を持つ世界最大の磁器の街である。
2008年に妻のたっての希望で上海から景徳鎮の2泊3日の小旅行をして、2016年二度目の景徳鎮でありましたが、街の変貌に驚くばかりでありました。
ガイドさんの話では、以前この街の10大国有磁器企業がすべて破産倒産し、街は観光地と倒産した会社の職人、デザイナー、営業の人たちが独立し中小の磁器制作会社として新作磁器をショップに供給する街に再生しました。政府も観光地化に予算を付け、大量生産ではない作家ものの磁器制作を奨励し、磁器工場跡地を磁器のお土産ショップ、ホテル、飲食店の観光地モールに生まれ変わらせたのです。夜になると景徳鎮磁器大学の学生たちが、無料で提供されたテントショップで、自分たちの思いのこもった制作作品を楽しそうに売っていました。工場のレンガの壁と窯の煙突が、レトロ感を醸し出しそのショッピングモールに歴史の重みをイメージさせることに成功しています。
さすが1000年の磁器の街です。ここでもイノベーションを起こして再生したのです。一度目は、磁器の原料である磁石が不足して原料の供給不足の危機がおこった時、近郊の800メール山KAOLINの磁土を磁石にブレンドする二元配合を開発し、磁石の節約と1700度の焼成に耐える磁体が出来がったのです。これによって蝉の羽のように薄く磁器を制作できるようになりました。またこの薄い磁器が景徳鎮の磁器の代名詞のひとつになったのです。いまでもこの究極の薄い磁器は進歩しており、現代作家もの工房でも、光を通す照明器具の傘として高級品として販売されています。

そして、もうひとつのイノベーション、青い顔料の開発でした。これまで磁器のデザインは単色が基本で、あとは押し柄であったり、削りであったり、絵を描くのはごくごく一部の作品だけしかありませんでした。このことによって表面に絵を描くことができるようになったことで、磁器は玉、青銅器の代替品の他、吉祥アイテムの機能をも持つことになります。吉祥紋様は、様々なデザイン、インスピレーションを与えてくれます。
龍、麒麟、動物、植物、魚、お宝、模様、アラベスク文様、英雄、子供、なんでも表現できるようになったのです。一番の得意先がペルシャ、トルコ市場、今でも現地の博物館に誇らしげに陳列され、また買い戻されて人々の称賛の的になっています。
この青の顔料の開発について、現代の景徳鎮の当事者もこの技術革新を大変誇らしい出来事として認識しており、ペルシャのコバルトの青とアフガニスタンのラピスラズリの青の顔料と並び称され,美術品の顔料史においての2大発見のひとつとして自画自賛しています。ラピスラズリの青の顔料は言うまでもありませんが、ダヴィンチ、ラファエロ、フェルメール達の青の顔料です。またその時の交易にはシルクロードの確立が寄与したことも重要な要素だったと言えるでしょう。やはり色彩の世界では、近年の青色ダイオードの発見を言うに及ばず一番重要な色であったということでしょうか。

中国の英語名CHINAの由来についてひとつの説をご披露しておきたいと思います。
唐宋の時代、この地は昌南(英語名CHANGNAN)すなわちチャンナン、チャイナです。景徳鎮は、オリエントとヨーロッパの人々にとって憧れの磁器チャンナです。そして宋の景徳の時代、皇帝の食器を制作する街として景徳がこの焼き物の街の名前になりましたが、世界のバイヤーたちはこの地区をチャイナと呼び、磁土は山の名前である高岭がそのまま英語名KAOLINになりました。それほど世界に通用する地名でありました。商品=ブランド=国の名前であった素晴らしい戦略的商品だったのです。
さて、明時代の御窯であった博物館も前回行ったときから様変わりしていました。当時は周辺に怪しげな骨董店やお土産ショップがあったのですが、そのお店はすべて立ち退きになり、入場の厳しい博物館になっていました。その理由は、その周辺の骨董ショップや小売りショップにあったというのです。このショップの本業は小売りではなく、御窯の周辺に埋められていた磁器や磁器の破片を盗掘するが目的で、昼間は商売をしているふりをして夜になるとトンネルを通って磁器の捨て場を盗掘していたそうです。ですので、店の人たちは、日中は商売気がなく居眠りばかりしていたそうです。それを怪しいと感じたお役人が内偵し一網打尽となったそうです。その結果、ここを厳重な博物館にして捨て場ももう一度掘り返して、修復して博物館で展示するなり換金しようとなったそうです。なぜこんなとんでもないことが起こるのか、それはこの窯が、あの明清を通じて世界最高級、世界のコレクターの憧れの的の官製窯だったからです。博物館のガイドさんの説明では、一度に100個200個焼いて、一番出来のいいものだけ採用されたあとは破棄されるのがルールだったと言います。だけどそんなのは信じられません。もったいないですよね。捨てたと言って横流しするのが世の常だったのでしょう。捨てられた作品も、後の世では破片を修復しても高値が付く作品だったのです。アクセサリーショップではその破片をトップにしてペンダントで販売しているところも増えてきています。

■ワンポイントレッスン

青花の見方のポイント
青の濃淡と青のムラ
元、明、清で皇帝ごとに青が違う。

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裏に皇帝の銘が入るのは宣徳帝からであるが、永楽帝の時代も散見される。特に底の刻印系が官製として珍重される。
明の永楽及び宣徳の青花の青が、一番評価が高かったが、近年元の青の再評価されている。清の時代から青のムラがなくなり、清の康熙,雍正,乾隆の3代がピークを迎える。
完成度が非常に高い。現代の青は化学顔料のため自然感がなく見分けはわりと簡単。